サバイバル意識

私は昭和50(1975)年生まれ。
中1が昭和62年。
その頃の理科の教科書には、地震の勉強の体験として載っていたのは、大正12年の関東大震災だった。
私の祖父母が生まれたころの地震だ。
大きな火災も発生し、多くの方が亡くなった。
このタイプの地震は、80年に一度関東地方を襲う。そう習った。
中学生ながら、心に響いた災害への意識だった。
自分が生きているうちに来るかもしれない。
備えなければ。
そんな気持ちが芽生えたのはこの頃だ。
中2の時に平成になり、その後、日本各地で災害が勃発。
地震をはじめとする災害に対してとても敏感になった。

二十歳目前の1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きた。
この頃、大学生で北関東に住んでいたが、学食のテレビ画面に流れたあの映像は今でも忘れられない。
食事ののったお盆を持ったまま、流れてくる映像に立ち尽くした。
私の中では、関東に地震がくると思っていたから、まさかあの地に!
何もしないではいられなかった。
学生ボランティアに登録して、一人神戸に向かった。

正直、出来たことはとても少なかった。
逆に学ぶ事が多かった。
特にトイレの使い方。
水が使えない水洗トイレほどみじめなものはない。
だが、幸い自衛隊が早く来てくれた避難所は、大きなバケツに水をためておいてくれたので、
皆さん工夫して、
小はそのまま。紙はゴミ箱へ。
大は柄杓で流してよい。でも、紙はゴミ箱へ。
そんなルールで避難所になった小学校のトイレをなるべくきれいに使っていた。
他にも、多くの工夫や協力体制があり、本当に素晴らしかった。
益々、災害時のサバイバル意識が強くなった。

普段から、折り畳み式のナイフをカバンに持ち、大きい黒いビニール袋を小さくたたんだもの、マッチ、ちょっとした食料を常に携行することを心掛けた。
ナイフは、サバイバルには欠かせない。
黒いビニール袋は防寒着にもなる。
マッチは火おこしのため。
食料は飴やチョコレート等。
そして、なるべく地下鉄に乗らない。
大学卒業後、東京でOLをしながらダンスの舞台に立っていたが、
ほとんどオートバイで移動していた。
何かあっても自力で動けるように…。

結婚してからは、やたら防災グッズを揃えていった。
幼い子供がいるのに、何かあったらどうにもできないから。
そして、2011年3月11日、東日本大震災。

ついに来た。
そう思った。
私がいた場所は震度6強の揺れに襲われた。
何もかもが揺さぶられた。
祈るしかなかった。
丁度買い物に出て、帰ろうと、当時2歳前の息子ろろを乗せて車を運転中だった。
コンビニの駐車場に何とか停車して、揺れが収まるのを待った。
停電した町。信号はつかず、塀は崩れ、迂回しながら家路を急いだ。
高台から望んだ町は、ぼわっと埃を被った様だった。
家族は全員無事だった。有り難かった。
だが、家の壁は崩れ、食器は散乱。
余震におびえながらも最低限片づけて、寝床を確保した。
役に立ったのは、備蓄していた非常用食料と水。
そして、灯油ストーブ。
お湯を沸かして、温かい食事を食べることができた。
暖もとれた。
灯りにもなった。
プロパンガスは翌日には復旧できた。
トイレの使い方は、即座に神戸での避難所にならった。
こういう時、電気製品は本当に役に立たない。
知っていたから、あえてアナログのものを普段から使う様にしていた。
今もそれは変わらない。

子供たちには、マッチを擦って灯油ストーブに火をつけさせ(着火用の電池を抜いてある)、
土鍋でご飯を炊けるように仕込んである。
また、マッチは持ち歩けないので、キャンプ用の火おこし道具を持たせている。
勿論、それぞれ火を起こすことが出来る。
小さなことだが、何かの時に困らずに落ち着いて行動できる胆を持たせてやりたいという親心である。